夢をみるひと

□星の首飾り【3】
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▽▽▽▽▽▽▽



どうして急に泣きそうになってしまったのか、あの時は自分でもよくわからなかった。

膝に乗せるように抱き寄せられて、いくらもがいても逞しい腕はびくともしない。
心臓が早鐘を打ち、息が苦しかったけれど、泣くほどの痛みなんてなかったのに。髪を優しく梳かれるばかりで、すこやかな寝息すら聞こえてくる。

「…キヨちゃん」

どうにか絞り出した声に、ゆっくりと瞼が動き、ようやく私に気が付いた、と思った次の瞬間、一気に体を離された。強く両腕を掴まれて、つまさきが半ば浮いてしまうほどの勢いだ。

「ご、ごめん、ちぃ」

日の丸を背負って戦う、ワールドカップの本大会。
優勝を賭けた、リーグ最終節。
どんな重圧のかかる場面でだって決して表情を変えることがない彼の、こんな姿などいったい誰が想像するだろう。大丈夫か、痛かったろ、と言葉に詰まりながら謝るその顔を見ていたら、咄嗟に体が動いていた。

「大丈夫だよ、キヨちゃん」

あー、びっくりしたねえ!と背中を何度もさする。

「大丈夫だよ、大丈夫。どこも痛くないよ」
「ごめん…」
「うん、いいよ。びっくりしただけ。私はどこも傷つけられていないよ。大丈夫、大丈夫」
「でも」
「あーあ、キヨちゃん、すっかり寝ぼけてたね?」
「いや、…そうだけど、でも」
「寝言、何か呟いてたよね?夢の中でまた、星を探していたの?」

言葉を遮って続けると、キヨちゃんは曖昧に頷くような仕草をみせた。

「うんうん、そうだよね。だから、見つけたー!って、寝ぼけながら思っちゃったんだよね?ほら、これ」

胸元のアクセサリーを少し上げて見せる。小さな星を模ったネックレスだ。これを、探しものと見間違えてしまったんだろう。
そうでしょ?とほとんど確信を持って訊ねると、彼は深く息をつき首を横に振った。

「違うんだ」
「えっ?」
「…その、星のやつが、きらきらしてて…」
「…?」
「それが、夢の中で最初に目に入って。それで、手を伸ばしたんだけど…」
「うんうん、やっぱりそうだよね。いいよ、寝ぼけてたんだもん、しょうがないよ」

そうなんだけど、違うんだ。
ようやく顔を上げた彼は、ぽつりとそう言ったきり口を閉じた。黒い目が柔らかく私を映している。
寡黙な彼が言葉を探す間、急かさずに私は見守る。こんな風に会話を続けていくのは、私たちにとっていつものことだった。大きな青のキャンバスの前、永遠にそうしていたようにも感じられたが、時間にすればほんの数秒のことだったろう。唐突に、「そういうことか」と何か納得したようにキヨちゃんが呟いた。

「うん?なあに」
「その、星の首飾り…」
「うん」
「それって、彼氏がくれたって、前に喜んでたやつ?」
「ふふ。…きらきら、きれいでしょう」

そのネックレスはもう、とっくに手放した。あえて訂正するほどのことでもないかと思い、とりあえず頷いて話の続きを促す。

本物の星なんて、手に入れられるわけがないのに。
おれはいつも、ほしいと言われるまま、ばかみたいに探し回ってばかりいた。ほんとうに喜んでくれることはなんなのか、自分で考えもしなかった。もしもあの頃、星の首飾りでも見つけてあげられたら。

「そしたら、泣かせずにいられたのかもしれないな…」

言葉足らずで、脈絡なんかぜんぜん無いし、何の話なのか結局よくわからない。
けれど、その低く穏やかな声を耳にしたら、さっき引っ込めた涙がまた出てきてしまいそうだった。
星を探し続ける理由も、繰り返し見てしまうらしい夢の背景も、私は何も知らない。
だけど確かに触れたのだ。彼自身もうまく言葉にできないような、心の奥に閉じ込めている深い気持ちに。
抱きしめた腕のぬくもりや、囁いた名の切ない響きから、伝わるものが確かにあった。
強く抱きしめられて、込み上げた不思議な涙。
零れ落ちてしまう前に、どうにか笑いに紛らわせた。泣いたら終わりだ。直感的にそう思った。よき仕事仲間、気の置けない友達。これまで大切に築いてきた関係が終わってしまう。


「それはそうと、ベス、もう帰っちゃったんだね?頼まれてた本を渡しに来たんだけど、ここに置いておくから伝えておいてくれるかな」
「わかった」
「ありがと。じゃ、私行くね。キヨちゃんも寝るならちゃんとお家に帰って寝るんだよ」
「待って、送るよ」
「ううん、いい。タクシー、待たせてるから…じゃあね」

アトリエを飛び出すと、薄い雲に包まれた白い月が静かに光っていた。
その後、締切が迫ったり遠征が続いたりとお互いに慌ただしい日々が続き、しばらく会うことはなかった。
めずらしいことに何度か電話が掛かってきたけれど、出る気にはなれなかった。
ずいぶん落ち込んでいるらしいことをレイシーたちから聞かされたけど、あの涙の正体もよくわからないままで、伝えるべき言葉をうまく見つけられないのだった。
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